「いのちの記憶:銀河を渡るII」(沢木耕太郎著 新潮文庫)というエッセイ集に心にささる文章があります。
てっぺん
“なんで、みんな、てっぺんへ登りたがるのですか。麓でもすてきな所はいっぱい、あるのだ。中腹が好きな人もあっていいだろう。いや、三合目くらいが一番、いいんだ、という人もある“
“てっぺんだけをめざしているうちに人生のいちばん美味しい部分が、腐って食べられなくなっちゃったりするのだ“
これは「いのちの記憶:銀河を渡るII」の一編、「ふもとの楽しみ」からの引用しています。本文によると、上記は田辺聖子さんのエッセイ集『篭にりんご、テーブルにお茶』の一節、とあります。
私は「てっぺん」が引っかかりました。『てっぺん』とは“トップ、頂上“という意味で理解しています。私が社会人になって以来、すでにてっぺんの近くにいる人たちを見てまだふもとにいる自分の無能さに苦しんだことを思い出します。同時にやっと中腹にたどり着いたことを喜んだ思い出もあります。しかし作者(田辺聖子)は「てっぺん」を目指すことをバッサリと切り捨てています。
沢木氏はエッセイ本文に、
“私自身も「てっぺん」を目指していたかもしれない。このエッセイ(「籠にりんご」田辺聖子著)の考え方によって、私(著者:沢木耕太郎氏)の「ひと」に対する価値観に変化が起きるような気がした“
と述べています。私も及ばずながら沢木氏と似た感覚を覚えました。
てっぺんを目指す
私が高校生の頃の話です。当時運動系の部活に属している人の多くはその競技の大会で上位入賞することを目標にしていました。私の場合水泳の府立高大会で入賞することが目標でした。私の実力では勝ち残ることがなく入賞できませんでしたが、毎日練習はしていました。そんな中バレーボール部の友人は大阪の代表メンバーに選ばれインターハイにも出場しています。運動能力が極めて高く、朝も夕方も体育館にいる彼は「てっぺん」を極めた人間です。私は結果を残すことができない運動オンチでしたので、相手コートに強烈なスパイクを打込んで注目を浴びている彼を羨ましく思ったものです。ただ私は水泳部を辞めようとはしませんでした。続けること、鍛えることで、将来私の「てっぺん」を極めることができるかもしれない、という思いでとにかく泳いでいたことを記憶しています。
時が流れ、社会に出て私の入社した会社は、社員に結果を強要することも極端なトップダウンもない雰囲気の良い会社でした。しかし出世競争は熾烈で、毎4月と9月に発表される人事異動に一喜一憂の繰り返しでした。高校時代同様ここでも能力が高く、努力を重ねている人は入社年度に関係なく「てっぺん」に近づきます。当時上昇意欲の塊だった私にとっての「てっぺん」、部長への昇進がないことを悟った私は別の「てっぺん」を求めて会社を去ることしました。
会社が変わっても私なりの努力は継続しました。お客様視点を優先することだったり、業績分析をするための勉強だったり自分自身でできることを継続していました。その甲斐あって私は小さな会社の「てっぺん」、社長を任されて会社を切り盛りする経験をさせてもらって現役を終えることになりました。
言いたいことは、私が常に「てっぺん」を意識して生きてきたことです。注目されることのない「普通の人」である私も自分なりの満足をを得ることができたと思っています。どんな人も「てっぺん」を意識してコツコツと取り組むことで何らかの結果を残すことができるのではないでしょうか。私の「てっぺん」は経営者でした。会社で役職に就くことはもちろん、職人さんが独立することも立派な「てっぺん」です。何が「てっぺん」かは人それぞれの考え方と思います。別の言い方をすると、「てっぺん」を目指すことが精進すること、努力することの原動力になるのではないでしょうか。
てっぺんは必要?
しかし、「てっぺん」の必要性を主張すればするほど、「てっぺん」を目指さない人との考え方のギャップが大きくなります。著者(沢木氏)はそれを “どうしてもっと頑張らないのだろうと歯痒く思う“ と述懐された上で、再度田辺聖子氏のエッセイから名言を切り抜かれています。
「それが何ぼのもんじゃ」
この言葉は田辺聖子さんのパートナーの口癖とエッセイ本文に説明があります。「てっぺん」をめざさない人の価値観について、まさに的を得た言葉だと思います。ふもとなり三合目を望んで過ごす人生も、「てっぺん」を目指すことも同じ人生です。「てっぺん」を極めている田辺聖子さんも、考え方が異なるパートナーから影響をうけておられたことと思います。
私の知人で仕事を休んでは世界中のダイビングスポットを訪れている人がいます。私からみれば十分てっぺんを狙うことのできる能力をお持ちですが会社組織の「ふもと」で地味に会社勤めをしておられます。またゴルフと野球観戦が好きで仕事を早期退職した人を知っています。超大企業を辞めて、自分の時間を堪能しながら毎日を過ごしています。僭越ながら、著者同様に“どうしてもっと頑張らないのだろうと歯痒く思う。“人たちです。自分の意思で中腹や三合目に留まって、楽しんで生きている人たちを、私が理解できていないようです。
もっとも、ダイビング好きの知人も、ゴルフを楽しんでいる友人も活き活きとした毎日を過ごしています。人は「てっぺん」に向かうことで前向きになる、は私の脳みそに刷り込まれた思い込みのようです。このエッセイはそれを私に教えてくれています。
ふもとの楽しみ
「いのちの記憶:銀河を渡るII」の作者沢木耕太郎氏は「深夜特急」という旅行記をはじめ多くの有名作品を発表している大作家です。この「いのちの記憶」を読むだけでも氏が、「てっぺん」に向かう生き方と「麓」を楽しむ生き方両方の価値観を達観されていると感じる場面に出会います。小さな「てっぺん」に満足している私はせめて、偏った思い込みだけはしないようこころがけたいものです。
私のことを理解しているであろう妻が時折みせる、私への冷たいまなざしが頭に浮かびました。これから彼女に言われることがあれば、『ふもとの楽しみ』を手元に置いて自身の言動を振り返ることにします。
「それが何ぼのもんじゃ」
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